花...春夏秋冬それぞれの時節に於けるその美しさのアレコレについて、私は小ブログ上で拙い映像を添えながら数限りなくご紹介してまいりました。。
例えば...淡い色、鮮やかな色、深みのある色、、、等が風の吹かれようによっては寂しさを装ったり、楽しそうに踊ったり、妖しげに誘惑するかのような仕草をしたりするのですが...
それは、私がその様な目で花たちを見るからなのでしょうか?、いや決してそうではない、花たちには天賦のものとしてそれが備わっているとしか思えないのです。
だって、137億年前に宇宙が大爆発を起こして地球が誕生した時に、生命の活動に適した地球(上)の全生物が宇宙から生命を吹きこまれて(地球創造から46億年の間に人類と同じように)花もまた進化して来た訳ですから、花だってその様に表現する力ぐらいは秘かに備えて来たと思ってしまいたくなるのです。
私はその花の心情をどうしても知りたくて、しゃがみ込んで目線を同じく顔を近づけて見るのですが・・・花は言葉を発してくれませんから、心の深い部分を掴めないままで終わってしまうです。
少しだけれども理解できる程度にその答えは返ってきます。。。しかし、花はいつも寡黙で全てを語ろうとはしないのです。
「秘して語らず」というのが...花たちの掟だと...花は私に耳打ちすることもあります。
========
実は今、我が小庭には 頑として秘して語ろうとしない " そのような花 " が咲いています。
今日はその花の事について、私なりにその謎に迫ってみたいと考えております。
その為には.....(私は考えたのですが)あの能楽を大成させた世阿弥の「風姿花伝」を茲許ご紹介して置かなければならないと.....。
「秘すれば花」という...例の一説です。
是非お読み下さって、私と共に「謎」解きの一助としていただければ大変有り難く幸せに思います。
========

世阿弥は室町時代の1400年前後、時の3代将軍 足利義満の庇護を受けながら能の奥義を極めて行きました。
「風姿花伝」は一門の能舞台の在り方についての望ましい形を述べたもので、それは一門の隆盛を願って書き記されたものですが、その興味深い教えと同時に、この一書から “花とは?”について様々な事を学ばせてもらっています。
(米 浅学の身ですから、口語訳については各種参考書から引用させていただきました。 ↑ ↓)
一、 “秘めておくこと” が大切だということを知る事。秘めておくからこそ、それが花になる。(あからさまに公開してしまったら、もはや花ではない)
(この秘めておくか、あからさまに公開するか、という)この分け目を知る事が最も大切なところである。

そもそも、(いや、これは能楽のことだけではないが)一切のこと、諸道芸に於いて、各家のそれぞれに “秘事” があると云うのも、それは、その様に秘めておくこと自体に大きな “働き” があるからなのだ。
しかし、“秘事” などと云ったところで、その内容を知ってしまえば " なーんだ、そんな事だったのか " 大層に云う程のことでもないではないかと云う人は、“秘事”ということの大きな働きを知らないから(そんな事が云えるのだ)
まずもって、この “ 花についての口伝書にしてから、そういうことが云えるではないか ”
(この口伝書を公開してしまって、ここに書いてある秘事が珍しい「花」 つまりは見どころなのだな)と皆が知っていたとしたなら、能の観客は(あの口伝書に書いてあったように) " 何か珍しいことをするぞ、するぞ " と期待しながら見ることになって、

どんなに珍しい演技を見せたとしても観客の心に珍しくて面白いという感激は起こらない。
だからこそ、見る人のためには、どこに花があるかは知らせないでおくと、(それが)シテにとっての「花」となるのだ。
かくして観客は、 " ああ、これは思いがけず面白い演技をする上手なシテだ "と驚き感心する。
そこで花とも知れぬこの秘めておいた事がシテの為の「花」ともなる。(と云う訳である)そのように秘めておいた結果が、観客の心に思いも寄らないやり方だ、という感動を催させる手法、これが、ここで云う「花」ということである。
========
・・・という訳で、
世阿弥一門では「人に知らせない」という事を生涯の家訓の原理原則となる「花」に譬えているのです。
「秘めておくからこそ、それが「花」になる。あからさまに公開してしまったら、もはや花ではない。」
世阿弥は 「秘すれば花」 の一説をこの様に ↑ 結んでいるのです。
======== それでは
我が小庭に咲く...ある花のつぶやき 「秘すれば花」の声をお届けする前に、雑音として聞こえてくる私のボヤキにも少しだけお耳をお貸し下さいませ。 o(*^▽^*)o
今年は春先から続く天候不順に私の心身が思うようについて行けず体調を崩す日が多くありました。
春がいつ来て...いつ去って行ったのか...さえも分からないまま、無為に過ごしていた3月~4月の “ らしからぬ春 ” には本当に閉口しました。
そして更に、 “薫風” をトレードマークとする5月に入ってからも雨や強風や竜巻に付きまとわれて、今 私の気分はハチャメチャなのです。
普段から陰と陽のバランスを大事にしながら生活している私ですが、花や樹木といった自然界の営みにも...そのアンバランスな配分???... が、影を落とし始めているような気がしてなりません。

↑ この見苦しい一角は隣家との境に2台分の車のスペースがあって、それに沿うように細長く見えるのが、実は私が大切にしている “ 花いじり ” の場所なのです。
今朝未明まで降り続いていた雨もやっと上がって、隣家とのフェンスを通して陽が差し込んで来ました。
昨晩は雷を伴った激しい雨に打たれて、私が好んで花を弄ぶ土の表面もまだ乾き切っていません。
(恥ずかしながら今はご覧の通りの)閑散とした小さな花畑ですが、朽ちたチューリップはじめ萎えた花々や雑草も摘み終えたので、これからは施肥をする等...新たに土植えする花たちに喜んでもらえるような環境づくりに精を出さなければと考えているところです。
このように一年を通して手間暇を掛けるのですが、これも花たちが喜びを満面に表わして誇らしげに咲き匂う様子を目の当たりにしたいからに他なりません。
しかしながら.....花たちの中にはその様な私の苦労と願い事を分かってくれようとしない花もいるのです。
そりゃ私だって...春夏秋冬...いろんな花を狭いところに咲かせようとするのですから...中には息苦しさとストレスを感じてジッとしてられない性分の花だっているだろうとは思っています。
秘すれば花
私は数え挙げられない程、それはそれは沢山の花を知っています。
美しい花、可憐な花、艶やかな花、寂しげな花、、、それは...容姿だけではありません。
長年、花との触れ合いを重ねるうちに(それは何とでも、誰とでもそうだと思うのですが...)花と親しくなる方法として、私は腰を屈めて、互いに目で見つめ合い、鼻をくっつけあって、美しい容姿と芳醇な匂いを感じ取りながら会話を交わす事が一番だと思っています。
(私はちょっとだけ花たちと花言葉でヒソヒソ話が出来るようになったし、彼女たちが考えている事だって少しは理解出来るようになっています)
別に ↑ こんな事を強調してみたところで何ともナリャシナイのですが・・・
でも、本当のところは良く解かっていないのです...花たちは心の底を教えてくれないからです。
花には秘密にしておきたがる習性があるようです。。。 彼女たちには“秘め事”にして置きたい何かがある様なのです。
私は、その“ 何か ” が何なのかを知りたいと思っているのですが・・・
いや... 実は、小庭の花畑にもその様な花がいて、今も咲いているので連日しゃがみ込んでは聴きだそうとしているのだけれど、" それは花として出来ない相談。あからさまにしてしまったら花ではなくなるから。 " って云うのです。
天気の良い日なら花だって気分よく話してくれるかもしれないと私は考えて、晴れる日を待ちました。
先ほどご紹介しました花畑には今ビオラ他2種類の花が咲いていて、いずれも命の限りを尽くして、そろそろ燃え切ろうとしています。
実は(狭いながらも)我が花畑で...秘して語ろうとしない花とは...このビオラのことなのです。
ビオラは寒い冬を越して、或る時は雪に埋もれるようにそのまま絶えてしまうのではないかとハラハラした時もありました。
時季を得て盛んに咲いていた頃のビオラは、周囲をうっとりさせるほどの芳香を漂わせてくれましたし、麗しさと愛くるしさを振りまきながら、それでいて強い意志を持つこの花が...いつの間にか私のお気に入りになってしまって...毎年植え込むのを楽しみにするようになっていました。
それほどに可愛がっていたビオラなのに、いいえ...さすがはビオラと云った方が良いのでしょうか...彼女がいつも口にする事は「秘するは花」の掟だからの一点張りで、何が不満なのか、私のどこが気に入らないのか、今回もプイっと花畑を飛び出して行ったのです。
何故なのか、私にはその真意が本当に分からないのです。 ↓

私の大好きなビオラが居心地良く住めるようにと折角入念に手を施したと云うのに、何故秘密の行動をとって黙って出て行ったのか、私には不可解な「謎」として残るのです。

様々な種類の花を愛でて来た私ですが、 ↑これが↑で示した飛び出したビオラです。このビオラのように、芝や雑草が生い茂る離れた場所で新たな生命を育もうとする花をこの花畑では他に知りません。
例えば風に吹かれたタンポポの穂種がこの位置に落ちて花を咲かせるのなら私も納得するのです。
ビオラにはビオラのお家の秘事と云うものがあるのかも知れません。
この様なビオラの演出を見て、私は " 凄いことをするものだな~ " と云うのがビオラに対する第一印象であり、感激もしたのですが、でもその後は待てよと思い直し始めました。
と云うのは、ビオラのこの様な行動は今年が初めてではないのです。
ここ2~3年、(いつもこの時季になると)私にとって不測の転地と思える気まぐれを起こしているのですが、こうなると、もはや私にとってはハプニングでも何でもない訳です。
私にはビオラの深い気持ちは解かりませんが、毎年のことゆえ私がそれ程感動しなくなっているという事に、ビオラは気付かずにいるのではないのでしょうか?
普通なら " な~んだ、そんな事.....又.....なの。 " という気持ちでしょう?
私はビオラが毎年そのような行為を取るたびに、それは道路に面した門扉から玄関口に通じる狭い通路を越えた...僅かな距離にすぎないその行動を...「ビオラの小さな旅」だとか、「ビオラの大いなる野心」だとか思いながら見ていました。
だけど、待てよ!と思い直したのです・・・やっぱりビオラは凄いのです。
私がビオラのその事を “旅” だとか “野心” 等と云っていることをビオラ自身は既に知っていて、(ネタはバレテいる?)にも拘らず、ビオラが長年それを続けているという点に何かがあると睨んだからです。
ビオラはやはり並みの花ではなかったのです。 
「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」 ・・・ ビオラは最後まで “秘すること” を重んじたのです。
私に 見え見え だと思われながらも、何故?という理由を一切明かすことなく「秘すれば花」を徹底して貫き通しました。
世阿弥の教えにも通じる「見事な花」だと云えましょう。
========
てつのつぶやき:
自分が手を掛けて育てた花...その種類は限りないし、その全てが愛おしいと思う。
一シーズンに一度しか会えない僕が愛する花たち、みんな彼女たちは美しく咲き美しく散って行く。
一年草の花たちは自らの命の儚さを知っているのであろうか、みんな健気で一所懸命に咲こうとしている。
僕はそれを知っているから、花たちに話しかけて感謝の言葉を伝えたいと思う。
もちろん黙ったままの彼女たちだけれど、その佇まい・装いを見ていると、どの花にも 「秘すれば花」 の思いが溢れている。
それは何故か? ・・・ 一途な花たちから教わる事は多い。
宗教詩人 坂村新民さんの詩が胸をよぎる。
生も一度きり
死も一度きり
一度きりの人生だから
一年草のように
独自の花を咲かせよう
========